佐藤先生

佐藤先生

 

幼少期

生まれた頃は、よく泣き、よく笑う感情表現が豊かな男の子でした。(今は角が取れて、比較的おとなしい)ただ、人付き合いにおいては今もそうですが、人好きなのに人見知りというややこしい性格でした。「仲間に入れて」と口には出さず、タイミングを見計らって自然と輪の中に入っているような、寂しがり屋でした。

小学生時代

水泳、サッカーを習い、学校の休み時間や放課後は外で遊ぶなど体を動かすことが好きな少年でした。習っていた水泳のスクールでは後から入ってきた友人が、自分を追い越して上級クラスに入っていくのを見た際に挫折。そのまま辞めてしまった苦い過去も。小学3年生の時、夏休みの宿題をぎりぎりまでやらず、親にきつく叱られた際に改心し、勉強も真面目に取り組むようになりました。

中学生時代

千葉県柏市立柏第二中学校に入学。爽快な打球音でラケットを振り抜く先輩の姿が格好良く見え、ソフトテニス部への入部を決意。基本的にテスト期間以外は毎日練習で、長期休みの際も毎日朝9時から17時まで練習しているような部活でしたが、それが全く苦にならないくらいのめり込んでいました。高校受験は生徒自身の「自主自律」を校是として謳いながら、勉強や部活、行事にまったく手を抜かないバイタリティに憧れ、「千葉県立東葛飾高等学校」を受験。合格を勝ち取りました。

高校生時代

千葉県立の高校で御三家と呼ばれるうちの1つ、「千葉県立東葛飾高校」に入学。(御三家あとの2つは県立千葉高校・県立船橋高校になります)絶え間なく大きな声を出し合いながら必死に練習するソフトテニス部の練習風景を見て、中学時代に果たせなかった県大会出場を果たしてみせようと入部を決意。高校2年時の新人戦で市大会を勝ち抜いて県大会出場権を獲得。全力で取り組んできた分野において何かを勝ち取ることが出来た初めての経験であり、言葉にできない嬉しさを感じました。しかし、高校3年生で最後の大会を迎える直前、思い通りに体が動かなくなる運動障害「イップス」を経験。崩れていくように引退を迎えてしまったその日は、これまでの人生で一番涙しました。ただ、この経験から、物事がうまくいかないときの向き合い方やメンタルの保ち方など学ぶことができ、勉強や仕事にも活かすことが出来ています。思い出すと今でも悔しいですが、間違いなく今の自分を形作っている大切な経験であることは間違いありません。今でも変わらずソフトテニスは大好きです。

大学生時代

政治経済を横断的に学ぶために、その道のトップである「早稲田大学政治経済学部経済学科」を一般受験し、現役で合格を勝ち取りました。高校生時代の私は、将来やりたいことの方向性が明確に決まっておりませんでした。そこで、自分の知らない世界の勉強に足を踏み入れてみたい、また世の中を語る上で外せない「政治経済」のことを深く勉強してみたいとの思いから受験に至りました。大学3年時、労働経済学や人的資源管理を専門に研究なさっている白木光秀教授のゼミ(通称白木ゼミ)に入りました。応募倍率の高い、人気ゼミでした。経営資源の「ヒト・モノ・カネ」におけるヒトについて、効果的なマネジメント方法を学んでは、ゼミ生の前でプレゼンをこなす日々でした。活動の幅は学内にとどまらず、日系大手企業の海外支社に赴き、人事部の方と現地人労働者の効果的なマネジメント方法等について議論する機会もありました。アルバイトでは、レストランのキッチンスタッフを長く経験。キャラメルとごま油を間違えてプリンを台無しにするような鈍くささを抱えながらも、調理場のほぼ全ポジションの仕事を覚え、現場を円滑に回すことに努めました。

IT企業勤務を経て、学志舎に参画

大学生時代の就職活動では「ものづくりが好きであったこと」「間違いなく社会に役立つものを作りたかったこと」を主な軸とし、都内のIT企業にエンジニア職として就職しました。上記職種を2年半経験させていただきましたが、自分の働くモチベーションは、ものづくりの作業そのものよりも、成果物が行き届いた先にいるお客様のリアクションにあることを沸々と感じました。そこで、お客様の顔を直接的に見ることができる場所で働きたい、そして自分がプライドを持って成果物の質を保証できる分野で働きたいと思い、これまで手を抜かずに勉強を頑張ってきた経験から、学習塾業界への転職を決意しました。転職活動時に私が描いていたなりたい講師像は「圧倒的なクオリティで生徒をひきつける講師」「生徒を数としてとらえず、一個人として各々の人生を全力でサポートする講師」でした。さまざまな求人に目を通す中で「第一に授業のクオリティを追求し、その結果として生徒が集まるような塾」「生徒が主役であり、過干渉ではなく、サポートに徹する塾」である学志舎に強烈な魅力を感じ、応募し、2021年11月入社となりました。