講師紹介(2025年)
布施塾長

学志舎が大切にしていることはシンプルです。「プラス思考 × 全力で取り組む」といった良い習慣」を育むことです。私自身、そのことを海上自衛隊やリクルート社で教わりました。次は私が子供たちに伝える番です。「一生忘れられない出会い」がここにあります。
心身を鍛えるため、防衛大へ
滋賀県立膳所高校(硬式野球班)卒業後、防衛大学校(理工学部)へ進学。 厳しい寮生活と数々の訓練を乗り越える中で「アメフト部副将」「校友会学生委員長」「中隊学生長」など100~1600人ほどの人を動かす貴重なリーダーシップ経験を積む。関東大学アメリカンフットボール(2部)のオールスター選出。


海上自衛隊で世界の海を体感する
卒業後、海上自衛隊幹部候補生学校(広島県江田島町)へ入校。分隊長を経験し、日本を一周する 「国内巡航」と約半年間に世界13か国を回る「遠洋練習航海」に参加。 帰国後、複数の基地勤務で任務を果たす。



外の世界で自分を試すためリクルートへ
短期間で密度の濃いビジネス経験を積むため「リクルートエージェント(現:リクルートキャリア)」に転職。「お客様の期待を1ミリでも高く超える」や「目標達成から逆算して日々の行動を決めていく 」ことを徹底させ、 大手企業担当のチームリーダーとして年間MVG(売上金額NO.1グループ)獲得に貢献。年間売上は2億円を越え、 MVPやグッドプラクティス、新規事業企画における特別賞などを多数受賞。 約5年間で300人以上の経営者や人事担当者へのコンサルティングを経験。のべ 450人以上の転職をサポートする。

日本で一番熱い塾を目指し、32歳の時に起業
2010年3月。尊敬し続ける塾経営者の教育法や生き方に憧れ、三鷹で開校。「海上自衛隊とリクルート社で学んだ人材育成法」を小・中学生の指導に活かす。



「教え子の成長した姿を見ること」
それは教師にとって最高の時間です。

卒塾生(#7主将,#24副将)
村岡先生(副塾長)

1978年生まれ。成蹊大学(法学部法律学科)卒業。大学時代は体育会空手道部副主将として部活に打ち込みつつ、元内閣総理大臣中曽根康弘事務所にてインターンシップを経験。
約1万人から、19名に選ばれる
就職氷河期の時代に、約1万人の受験者の中から入社19名という狭き門を突破し、広告代理店の株式会社東急エージェンシーに入社。当時、面接選考・集団討論の通過率は高く、受けたほとんどの企業面接を通過した経験を持つ。
広告代理店では媒体および営業部門では朝日新聞やジャパンタイムズ(英字紙)、サントリー等のメディア戦略やマーケティング活動、人事部では採用や教育に長年携わった。
採用活動では、早稲田大学、慶応義塾大学、明治大学、中央大学、青山学院大学、同志社大学、立命館大学など、私立校や国公立大学にて企業説明会やキャリアセミナーを開催し、出会った学生は1万名を超える。
採用のスペシャリストとして、日本全国を飛び回る
その後、企業で培った経験を活かし、自治体、大手IT企業、シンクタンク、メーカー、大学などで研修講師や採用についての講演、人事評価制度の見直しなど「採用、人事業務全般のスペシャリスト」として日本全国を飛び回る。

学志舎に参画
旧知の仲であった布施塾長の教育理念に折について触れ、塾生を支援したい気持ちを抑えきれず学志舎に参画。若い才能を発掘し伸ばすことを「男一生の仕事」と決意し、2017年学志舎の専任講師となる。長年の人事・研修経験を活かし「一般入試にも推薦入試にも強い学志舎」、「第一志望校に導く過程で、社会で通用する思考力と幅広い教養を身につけさせる学志舎」を目指す。

参考ブログ
アクセス数が多かった記事をいくつかまとめておきます。


佐藤先生(駅前校 校長)

小学生時代
水泳、サッカーを習い、学校の休み時間や放課後は外で遊ぶなど体を動かすことが好きな少年でした。習っていた水泳のスクールでは後から入ってきた友人が、自分を追い越して上級クラスに入っていくのを見た際に挫折。そのまま辞めてしまった苦い過去も。小学3年生の時、夏休みの宿題をぎりぎりまでやらず、親にきつく叱られた際に改心し、勉強も真面目に取り組むようになりました。
中学生時代
千葉県柏市立柏第二中学校に入学。爽快な打球音でラケットを振り抜く先輩の姿が格好良く見え、ソフトテニス部への入部を決意。基本的にテスト期間以外は毎日練習で、長期休みの際も毎日朝9時から17時まで練習しているような部活でしたが、それが全く苦にならないくらいのめり込んでいました。高校受験は生徒自身の「自主自律」を校是として謳いながら、勉強や部活、行事にまったく手を抜かないバイタリティに憧れ、「千葉県立東葛飾高等学校」を受験。合格を勝ち取りました。
高校生時代
千葉県立の高校で御三家と呼ばれるうちの1つ、「千葉県立東葛飾高校」に入学。(御三家あとの2つは県立千葉高校・県立船橋高校)絶え間なく大きな声を出し合いながら必死に練習するソフトテニス部の練習風景を見て、中学時代に果たせなかった県大会出場を果たしてみせようと入部を決意。高校2年時の新人戦で市大会を勝ち抜いて県大会出場権を獲得。全力で取り組んできた分野において何かを勝ち取ることが出来た初めての経験であり、言葉にできない嬉しさを感じました。しかし、高校3年生で最後の大会を迎える直前、思い通りに体が動かなくなる運動障害「イップス」を経験。崩れていくように引退を迎えてしまったその日は、これまでの人生で一番涙しました。ただ、この経験から、物事がうまくいかないときの向き合い方やメンタルの保ち方など学ぶことができ、勉強や仕事にも活かすことが出来ています。思い出すと今でも悔しいですが、間違いなく今の自分を形作っている大切な経験であることは間違いありません。今でも変わらずソフトテニスは大好きです。
大学生時代
政治経済を横断的に学ぶために、その道のトップである「早稲田大学政治経済学部経済学科」を一般受験し、現役で合格を勝ち取りました。高校生時代の私は、将来やりたいことの方向性が明確に決まっておりませんでした。そこで、自分の知らない世界の勉強に足を踏み入れてみたい、また世の中を語る上で外せない「政治経済」のことを深く勉強してみたいとの思いから受験に至りました。大学3年時、労働経済学や人的資源管理を専門に研究なさっている白木光秀教授のゼミ(通称白木ゼミ)に入りました。応募倍率の高い、人気ゼミでした。経営資源の「ヒト・モノ・カネ」におけるヒトについて、効果的なマネジメント方法を学んでは、ゼミ生の前でプレゼンをこなす日々でした。活動の幅は学内にとどまらず、日系大手企業の海外支社に赴き、人事部の方と現地人労働者の効果的なマネジメント方法等について議論する機会もありました。
IT企業勤務を経て、学志舎に参画
大学生時代の就職活動では「ものづくりが好きであったこと」「間違いなく社会に役立つものを作りたかったこと」を主な軸とし、都内のIT企業にエンジニア職として就職しました。上記職種を2年半経験させていただきましたが、自分の働くモチベーションは、ものづくりの作業そのものよりも、成果物が行き届いた先にいるお客様のリアクションにあることを沸々と感じました。そこで、お客様の顔を直接的に見ることができる場所で働きたい、そして自分がプライドを持って成果物の質を保証できる分野で働きたいと思い、これまで手を抜かずに勉強を頑張ってきた経験から、学習塾業界への転職を決意しました。転職活動時に私が描いていたなりたい講師像は「圧倒的なクオリティで生徒をひきつける講師」「生徒を数としてとらえず、一個人として各々の人生を全力でサポートする講師」でした。さまざまな求人に目を通す中で「第一に授業のクオリティを追求し、その結果として生徒が集まるような塾」「生徒が主役であり、過干渉ではなく、サポートに徹する塾」である学志舎に強烈な魅力を感じ、応募し、2021年11月入社となりました。


埴村先生(本校 校長)

小学生時代
三鷹市立南浦小学校に入学。1年生の秋から野球チーム(連雀スパローズ)に所属し、楽しく練習していました。小学校中学年では、父曰く「根性をつけるため」との理由で三鷹警察署の柔道スクールに半ば無理やり通わされていました。当時はやめたくて仕方がなかったのですが、今思えば武道に接したことで礼儀を知り、精神的にも成長できたとても良い経験でした。5年生からは野球に専念するために柔道をやめ、いわゆる野球少年として過ごす毎日でした。
中学生時代
三鷹市立第一中学校に入学。外部の硬式野球クラブに所属して、日々練習に励んでいました。レギュラーにはなれず、自分の野球人生では一番苦しい経験をした時期でしたが、諦めない心を身につける大切な経験でもありました。
学志舎との出会い
中学3年生の7月に野球の最後の大会が終わり、高校受験を意識し始めましたが、塾選びには全く関心がありませんでした。当時の学力は可もなく不可もなくといったところで受験に対する焦りや不安もほどんとなく、家から近い都立高校に行ければいいと考えていました。そんな中、母が探してきてくれた塾が「学志舎」でした。父も布施塾長の経歴を見て、「防衛大卒なら大丈夫」との理由で即決だったとか。ただ、塾が決まっても私の意識はまだまだ低く、夏期講習の授業が15時頃に終わるため「そのあと遊べるじゃん」という今から考えると信じられないようなことを考えていました。実際、講習初日の授業が終わり帰ろうとしたところを塾長に引き留められ、また他の塾生が無言で自習席に移動していく様を見て「あれ…そんなはずじゃなかったのに…」と困惑したことを今でも鮮明に覚えています。それからは周りの塾生につられるようにして授業と自立学習を繰り返しました。何度考えても分からない問題は塾長に相談しに行けば秒速で解決し、夏休みだけでもグングンと学力が向上した実感がありました。夏期講習が終わる頃、塾長との面談で都立武蔵野北高校への合格を目指すことに決まりました。その時はまだ自信がなく、半信半疑であったことは事実ですが、塾長の「君なら絶対に出来る」という言葉を信じて、毎日オープンからクローズまでの16:00~22:00、必死に勉強し、他の塾生とも切磋琢磨しました。年末には明大付属中野高校へのチャレンジ受験をすることも決め(後に合格)、その時期からは自分に自信をもって勉強することができたと思います。年始の過去問演習で満足に得点できないなどの紆余曲折がありながらも、作戦通りに得意科目の英数理でしっかりと点数を稼ぎ、当日420点以上のハードルを乗り越えて「都立武蔵野北高校」に合格しました。学志舎に通った期間は半年程度と短い間でしたが、平坦な道を選びがちな自分にとって挑戦し、努力することの大切さと、背中を押してくれる存在の心強さ・有難みを感じる貴重な経験となりました。
高校生時代
都立武蔵野北高校に入学。当初は学校行事や部活動が非常に充実しており、順調な学校生活を送っていましたが、勉強の難易度が上がるにつれて部活動とのバランスが取れず、勉強が疎かになりました。思えば誰かに背中を押されてきた人生であり、自ら進む道を選んだという経験はありませんでした。背中を押されるだけの人生ではいけないと感じ、悔いのないように自分の人生は自分で決めること、そして実現に向けて計画性を持つことの大切さを学びました。
大学生時代
ものづくりへの興味から専門的なことを学びたいと考え、大学では理工学部に入学。ロボット系のゼミに所属し、「磁気浮上ロボット」という磁石を用いた移動ロボットの設計・制御についての研究を大学院卒業まで行いました。大学1年生の秋頃、塾長から学志舎を卒業して以来初めて直接の連絡を頂き、学志舎にとって初のアルバイト講師を務めました。理数を中心に、受験生への過去問解説(オリジナル解説プリント作成)や中1・中2クラスの授業などを大学院卒業までの約6年弱担当しました。講師という立場でありながら、生徒たちが熱心に勉強をする姿に強い刺激を受け、自分自身も気を引き締めて大学生活を過ごすことができました。
電化製品メーカーでの勤務を経て、学志舎に参画
ものづくりへの興味は変わることなく、大学院卒業後はパソコン・スマートフォンの周辺機器などを取り扱う大手電子機器メーカーへ入社し、ケーブル商品の企画・設計検査や発売するまでのマネジメントを行いました。約2年半勤務し、特に目標を達成するためのプロセスを計画的に実行するタスク・スケジュール管理の重要性や、リスク対策力が身についたと感じています。一方、専門的な知識のインプットとアウトプットを繰り返す中で、自分なりの言葉で物事を伝えることが自分は好きだと感じ、講師という職業が向いているのではないかと考えるようになりました。また、漠然とした「お客様」ではなく特定の「個人」にフォーカスをした仕事がしたいと考え、塾長・村岡先生に志願をし、2024年11月に入社いたしました。受験は「第一志望校への合格」という明確な目標がどの生徒にもあると思います。その目標を達成するために、「いつまでに、何をしなければいけないのか?」を生徒ひとりひとりと一緒に考え、計画的に学習を進めていく後押しをしたいと考えております。

山田先生(第2教室 校長)

小学生時代
三鷹市立南浦小学校に入学。入学後間もない朝礼で新入生代表として全校生徒を前に作文を発表することに。小1にして見知らぬ大勢の前で発表することは当時の自分にとっては一つの試練だった。クラスの代表委員なども経験。小学4年生から学校のサッカークラブ南浦FCに加入し、練習や合宿を楽しんだ。小学5年生の時に中学受験を検討し、大手進学塾に入塾。クラスが順調に上がり一定の通塾効果は実感できたものの、宿題に追われて家族や友人との時間が取れなくなったことから小学6年生進級時に退塾。
中学生時代
三鷹市立第一中学校に入学。サッカー部に入部。テスト期間以外は毎日練習があり、休みの日もほとんどの時間で活動していた。1学年上の先輩が都大会優勝の強豪チームであり、身体的・精神的に鍛えられた。また部活動での激しいメンバー争いの中で「原因を客観的に分析し、自分のよくなかった部分の改善に取り組まずして自己の成長はない」と気づくことができたのは部活動通じて得られた一つの財産。
学志舎との出会い
中学3年になり受験を意識して塾探しを始めたところ、母が自宅ポストにチラシが入っていた学志舎を勧めてくれたことから6月頃に体験授業へ。他塾の体験授業も受けていたが、布施塾長との握手から伝わってくる熱量に感銘を受け入塾を即決。入塾前は自宅から最も近い都立高校しか知らず、そこに合格できればいいと思っていた。さらに宿題以外の勉強はほぼしておらず勉強時間はゼロに近かった。しかし、入塾後は気づいたら席は塾長の文字通り目の前となっており、クラス授業でありながらマンツーマン同然の状態だった。毎日塾に到着するとその日の課題を塾長と一緒に決定。疑問点は即時質問しその場で解消。座ったまま手を伸ばせば届く距離で添削を依頼、その場で速攻フィードバックというこの上ない環境で勉強に集中することができた。勉強のみならず、塾長の生き様や経験談、「アメフト観戦」や「リクルート本社訪問&役員との懇談会」などの課外学習を通して自分の世界が広がり、都立西高校が第一志望校に。1学年上で同じ中学で学志舎から都立国立高校に合格した先輩に憧れ、他の塾生と切磋琢磨し、毎日16:00~23:00学志舎で必死に勉強。結果、模試偏差値は5科73まで上げることができ、一般入試で「都立西高校」合格を勝ち取る。学志舎からの「都立西高校」初挑戦者であり、初の合格者となった。学志舎での受験生活を通し、本気で物事に取り組むときの「物差し(頑張りの基準)」を得ることができた。
高校生時代
勉強や部活動、行事など学校生活すべてに関心があったが、するべきことに優先順位を付けられず自分を見失い挫折を味わった。一方でこの挫折から物事がうまくいかない時の進め方や取捨選択の必要性を学んだ。
大学生時代
どの分野においても重要となるマーケティングやマネジメントについて勉強したいと考え、商学部に入学。電子商取引や知的財産権をテーマとしたゼミナールに入り、法的観点からの考え方を培った。主に著作権を研究対象とし、マーケティングやマネジメントの分野と合わせて、音源ビジネスについて論文の制作にあたった。学志舎ではアルバイト講師として小5クラス(算・国・理・社)、中2難関クラス(数・理)、中2応用クラス(英・社・国)の授業を担当。さらに授業解説のオリジナルプリントや自校作成校の過去問(数学)の分析資料を作成。小学生の作文添削、中3受験生の個別質問対応(過去問・模試)も経験。塾長から「どの塾でも即戦力として採用したいと思われるレベルまで成長したね」とお褒めの言葉を頂戴する。
学志舎に入社
就職活動では村岡教室長の個別サポートを受け、複数の大手企業から内定を頂く。しかし、塾長と初めて握手を交わした時より心を揺さぶられる出会いはなかった。その旨を塾長と村岡教室長に相談したところ、「一緒にやろう!」と入社のご提案を頂く。学志舎の塾生たちに教える楽しさとやりがい、充実感。分からない問題が解けるようになった時の塾生たちの笑顔や感謝の言葉。自分の授業を通じて成長する姿を目の当たりにできる喜びを日々感じており、また自分の「論理的に問題解決にあたる能力」やこれまでの経験を活かせる場は学志舎以外にないと考え、その場で入社を承諾。2022年4月より現職。
